老いの繰り言めく話を少々・・・
 町の要請で、不本意ながらも肥後民家村での蕎麦屋を畳んで
(つまり、営業を終了させた)のは、今年(2017年)6月25日のことでした。
 なんと嬉しいことに、花束やケーキ持参で、私たち夫婦の長年の苦労?を、
親しく且つ懇ろにねぎらって下さったお客様の姉妹もございました。

 店内外の片付けとお掃除を済ませ、造作部分と道具一式を完全退去をしたのは、
6月末日。それからでも早いものでおおよそ二ヶ月経とうとしています。
  なのに、このところ和水町の方々から、残暑お見舞いがてらの
お電話がいくつか入ってきております。「去る者は日々に疎く」ではなく、
大変お世話になった町の皆様と、こうしてまだ濃やかな関係で
いられることを、心から有り難く嬉しく、誇りに思っております。
 人とのつながりは、何と言っても、うれしいもの。とりわけ、
老いの身には、それこそが貴重な心の財産でして・・・

 思い起こせば、蕎麦屋を開業したのは、今から15年前の
2002年の10月半ばでした。61歳になったばかりのときでした。
 屋号は『蕎麦屋木阿彌』。当初暫くは「不景気な名前だね」と
評する人もおりました。けれど、敢えてその屋号にこだわった理由は、
そうしたマイナスイメージをこの際、一挙に払拭させたいとの思いからでした。
 
 その半年前に、私は地元大牟田で物販商売をしておりました。
 むろん私の力量も足りなかったのかもしれませんけれど、かなりの成績は
あげて居たにも係らず、国の構造変化政策もあって、地域経済の停滞化が進んだ結果、
ご他聞に漏れず、私の店も見事に営業不振に陥っておりました。
 そこで「もうこれ以上、傷が大きくならんうちに」と英断を下して、
生活雑貨の店と、業務用厨房器具専門店を、二軒同時に畳むことにしたのです。

 親元から独立して、夫婦で立ち上げた店も、元の木阿弥に戻った訳です。そして、
なにかのご縁で肥後民家村に来、「瓢簞から駒」ならぬ「冗談から蕎麦屋」を、
することになったのでした。「だったら、屋号は当然のこと『木阿彌」だよね」

 すると・・・、「飽きっぽいあいつのことだから、
どうせ蕎麦屋なんぞを始めても、良くて三年、どうかすれば三ヶ月も
保てば上出来の方だろう」と、周囲から言われることになりました。
 それに・・・「いまさら田舎での蕎麦屋なんて、一種の『都落ち』
みたいなものと違うのか?」などという商売人仲間の声も・・・
 さすがに面と向かって、そう言った人はなかったものの、
心配のあまりでしょうか、周囲の身内の人たちからは、揶揄い半分に、
それらしいことを匂わされたこともありました。

 でもそんな視線にあって「だからこそしっかりせんと」と、
今思うと私は、いよいよムキになり、発奮させられ、
どうやら覚悟めいたものが出来たのかもしれません。 
 要するに、当時の私の気持ちからすれば、「元の木阿彌から
再出発すりゃ良いんだろ?だったら、やってやろうじゃないか」でした。
 自分にはそれだけの能力も意気込みも持ってるつもりでしたし、
周到緻密な計画も練ってると、思ってましたから・・・
「だからこそ」敢えてその名前にしたのでした。

 その頃は判らなかったものの、でもこうして考えてみると、
揶揄い半分の忠告は、本当はだから「有り難い好意」だったんですね。
 しかしそれはてんで理解出来ず、頭のどこかでは、めまぐるしく変わる
この世の中に翻弄され、どうして良いか判らず途方に暮れている同胞達
(同じ商売人の仲間達)を、よそながら励ましてあげなきゃという、
いささか不遜な気持ちさえ私は、当時持っていたように思います。
 
 ともあれ、こうして始めた蕎麦屋もどうにか15年間もの間、
無事に続けることが出来ました。これも偏えに皆様の深いご理解と
ご愛顧の賜と、心から感謝している次第です。ありがとうございました。
 いまにして、こんなことがのんびり思い出せるのも、実は「良い潮時に」
蕎麦屋家業を辞められたからかもしれませんね。

 それはともかく・・・そんなこんなで・・・、蕎麦屋を開業してから
おおかた三年程は経った頃でしょうか、(今から十二三年程前)
世間でひとしきり騒がれた一冊の本が出版されました。
 アナウンサーの殘間里江子さんという人が書いた
『それでいいのか、そば打ち男』(新潮社)という本でした。 
 私からすれば、「何だ、こりゃ?」ですよね。 

 で、その本のことについては、縷々ご紹介したいんですけれど、
ながあーくなりそうですので、今回は、これにて。
 そしてまた・・・明日にでも。
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by sobaya-mokuami | 2017-08-26 16:29
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